韓流アイドルのファンは「厳しい母性」を発揮する

ファンが韓流アイドルの行く末を心配して、「頑張ってほしい。努力してほしい。成長してほしい」と執拗に繰り返す現象が見られます。
これは、アイドルグループ「超新星」とそのファン「ミルキーウェイ」との間で非常によく観察される現象です。
ミルキーウェイ」とは超新星のファンクラブ名であり、彼女たちはミルキーウェイという単語の中に「超新星との絆」や「ファン同士の連帯感」を読み込んでいます。
中には、ある種の自負心(「私たちこそが超新星を支え、守っているのだ」といったプライドや気負い)すら感じられるファンもいます。
要するに、「ミルキーウェイ」という言語は超新星とファンとの、またはファン同士の「連続性/絆」の表象なのだと思われます。

前置きはここまでにして、そろそろ本題に入りますね。
私たちが誰かに対して「頑張れ!」と言うとき、「相手は持っている力を出し尽くしていない」とか「まだまだ努力や気合いが足りない」ことを前提にしていませんか。
あるいは、「持っている以上の力を出してくれ」と要求していることになりませんか。

他人に対して「頑張りや気合いを要求する」のは、なぜなんでしょう?
頑張っている人を見ると、自分も頑張れるから?
相手の成功や勝利を願っているから?
いずれにせよ、他人に対して「頑張って!」と言うとき、私たちは「自分のため」に頑張ってほしくて、相手にその言葉をぶつけているような気がします。

例えば、親しい友人や家族が病気になったとき、「頑張ってね」とよく言いますよね。
親しい人間が元気になってくれれば、私たちは普通に嬉しいものです。
もし相手の病気が深刻であれば、病気からの回復は相手の喪失を回避したことになり、来たるべき絶望感や悲しみの感情を味わわないですむでしょう。
つまり、私たちは自分にとって好ましい結果を相手が運んできてくれることを望んでいて、そこで「頑張って!」と言っているのです。
また、応援しているスポーツ選手やアイドル、アーティストなどに「頑張って!」と言うとき、彼らが仕事や試合で勝利・成功を収めて喜ぶ姿を目にすることで私たちは同調・共感し、自分も興奮したり感動したい欲望があるから、「頑張れ」という言葉を口にしているような気がします。

結局、私たちは相手に対して「頑張って!」と言うとき、単に相手を激励しているのではなく、自分のために好ましい状況を作ってほしくて「頑張って!」と言っているのではないでしょうか。
そう、「自分のため」です。

ここで、アイドルグループ超新星に対し、一部のファンが執拗に頑張りや努力、気合いを要求する現象に関してもう少し突っ込んで書いてみようと思います。

超新星に対して「頑張って!」という言葉を使うとき、彼女たちは自分のために頑張ってほしくて、その言葉を口にしていることに気づいているのでしょうか?
超新星のことを心から愛しているから頑張ってほしい」という意見をよく見かけますが、それは寵愛的・保護的でありながらスパルタ的であるということです。
自分のために頑張ってほしい欲望を押し隠しながら、あるいは気づかないまま、「あなたのためよ」と叱咤激励する態度は「厳しい母性」そのものです。

口うるさく「あなたのためよ。頑張って!」と言われ続けたとき、あなたならどう感じますか?
結果にあらわれなくても、自分ではそれなりに努力しているつもりなのに、他人からひたすら努力や頑張りを要求されたとき、「もうほっといてくれ」と思いませんか?
ほっといてほしいのに、相手は追いかけてきます。
「あなたのためよ。私に合わせてくれるなら、いくらでもあなたを受け入れて愛してあげる」と。

この態度こそ受容的・包摂的・保護的でありながらスパルタ的であり、「厳しい母性」の象徴に思われます。
このように超新星のファンコミュニティには「厳しい母性」ともいうべき性質がはっきりと観察されるのです。

「厳しい母性」は、相手が自分の思い通りの姿であるときは過剰に愛情を供給しますが、相手が自分の理想から外れた姿や予期せぬ姿を見せたときには、素早く愛情を撤去します。
しかし愛情を撤去しながらも、相手を追いかけ回すことは止めません。
「あなたのためよ。私に合わせてくれるなら、いくらでもあなたを受け入れてあげる」と。
このように「厳しい母性」とはルールを欠いていて、恣意的な暴力になり得るのです。

そもそも母性とは心理学では、「相手を受容する」ものであると同時に「相手を食らい尽くす/飲み込む」ものだと解釈されています。
母性には二面性があるのです。
この「相手を食らい尽くす/飲み込む」部分が肥大化すると、「厳しい母性」(保護的・包摂的でありながらスパルタ)になるのかもしれません。

母性は性別に関係なくあらわれる性質です。
私たち人間は母性も父性も両方とも持っています。
父性が「相手との関係を切断する」機能を持っているのに対し、母性は「相手を受け入れる/飲み込む」機能を持っています。
父性=切断・分離・独立、母性=連続性・絆・受容なのです。
相手との境界を明確に意識しながら(人の心は個々に独立したものであり、相手の自我と自分の自我は決して交わることはないと意識しながら)、相手を受け入れるとき、切断と受容のバランスが取れているのかもしれませんね。
そうそう、このブログ・エントリーの前置きで、「ミルキーウェイ」という言語はファンにとって超新星とファンとの、またはファン同士の「連続性/絆」の表象であると書きましたが、連続性/絆=母性であり、「ミルキーウェイ」という集団が母性的志向を強く持っていることに他なりません。
ただし、最近の「ミルキーウェイ」は「厳しい母性」への傾きが顕著であるように思われます。


[参考文献]
*斎藤 環 『ヤンキー化する日本』 角川書店、2014年

韓流アイドルと「家族ゲームやコミュニティゲーム」をする女性ファンたち

韓国の文化(家父長制や男らしさ、濃密な家族関係)を背景にして、韓流アイドルや韓流タレントのビジネスは展開している部分があるように思われます。
つまり、ファンに対して「家族」や「絆」という概念を持ち出し、アイドルとファンとの間およびファン同士の間に強い結びつきがあるコミュニティ(現実的に本当に強い結びつきがあるかどうかは別にして、強い結びつきがあると感じさせてくれるコミュニティ)を作り上げることで、ビジネスが継続されているということです。
(「冬ソナ」ブームのとき、ヨン様は繰り返しファンを「家族」にたとえ、タレントとファンとの間に強い「絆」幻想を打ち立てましたよね。この傾向はその後の韓流カルチャーにも受け継がれていると思います)

なぜ日本の女性たちは韓流カルチャーに夢中になるのでしょうか?
その答えのひとつに、韓流アイドルとファンとの間およびファン同士の間で形成される擬似家族形態に魅力を感じていて、ファンがそこに絡め取られていることがあげられるのかもしれません。

1990年代から長く続く日本の経済不況の中で(途中に好況期も挟みましたが)、女性のライフスタイルも変化しました。
専業主婦の中には、夫のリストラや収入減に出くわした人もいるでしょう。
また、就職難で正規雇用にありつけない若者が急増し、親の世代よりも豊かに生きられないことを実感している人もいるでしょう。
貧困化は結婚できない若者を生み出しましたし、少子高齢化も招いてますよね。←個人的には、「男性が女性をリードし、守り養うものだ」といった古い固定観念に縛られている人ほど、結婚はままならないものになるような気がします(^_^;)
 「専業主婦として子どもを産み、結婚生活を送ることが、もはや経済的な保障を約束しないと気づき、女性の考え方も大きく変わった」といえるのかもしれません。
*『日本男性の「男らしさ」とはーー自衛隊を取材した米大学教授に聞く』より引用http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424127887323796904578178590803560734

シングルの女性が増えたり、専業主婦のいる世帯よりも共働き世帯が多くなったり、子どもを持たない選択をする夫婦がいたり、従来の結婚のあり方に疑問を持ち、事実婚を選択するカップルがいたりと、女性のライフスタイルも多様化しました。

要は、昔ながらの家族が崩壊しているということです。
日本ではまだまだ女性差別が温存されていて、雇用や賃金面において男性との格差がありますよね。←現在の不況下では男性も上かろ落ちてきて、女性並みになりつつあり、貧困化しています。
そんな社会環境に置かれた女性たちが「男に養われ、経済的に安定していた昔は良かった」と懐古主義的になっても不思議ではありません。
男女平等を望みつつも、男が責任感とリーダーシップを持って女を守り養うのが「男らしさ」だとして、相変わらず旧来の「男らしさ」にすがる女性もいるでしょう。

一部の女性にとっては、韓流アイドルが文化的背景をちらつかせて提供する「家族」や「絆」という概念が、旧来の「男らしさ」(男が責任感とリーダーシップを持って女を守り抜くこと)と合致し、昔ながらの家族を体感できるシステムやアーキテクチャとして機能しているのかもしれません。
(「男らしさ」は国や時代によって変わる流動的なものです)

しかし、このシステムやアーキテクチャは昔ながらの家族やコミュニティに似ているようでいて、実際にはそうでない虚像のシステム、つまり「家族ゲームやコミュニティゲーム」です。

そして、多くのファンは自分たちを支えているシステムやアーキテクチャ、つまり韓流アイドルや韓流タレントがビジネスとして提供している「家族ゲームやコミュニティゲーム」の真相を知りたがるとは思えません。
システムやアーキテクチャの中で安らぎたいのに、それが虚像のシステムだと突きつけられたら、まったりできませんから。

中には虚像のシステムだと意識しながら、まったりできる人もいるでしょう。
でも、虚像のシステムだと意識した途端、またはシステムが自分の理想としている旧来の「男らしさ」と合致しなくなったと感じた途端、まったりできなくなる人の方が多いような気がします。

そして、まったりできなくなった人間がまったりしている人間に対して苛立ちや嫉妬を覚え、「覚醒しなさい」だの「騙されるな」だのブログやSNSで騒ぎ出したとき、アンチファンになるのかもしれません。


最後に、社会学者の宮台真司氏のICCオープニング・シンポジウムでの発言(そのまま書き留めたものではなく、私なりの言葉でまとめているもの)を載せておきます。

「昔ながらのものはない。コミュナル(共同社会的)なものはいったん崩壊してしまった。そこで、昔ながらのものの機能的等価物をどう見つけ出し、開発するか?」
「つまり、昔ながらの家族はない。伝統家族はない。定型的な家族はもうない。だから、それに固執することはできない。だったら、家族のようなもの(変型家族)を行政的・社会的にどんどん支援していこうではないかという方向性。これがポストモダン再帰性(構築)といえる。おそらく日本で可能なのはポストモダン再帰性であり、これでいくしかない」

注)モダン的再帰性(保全)/ポストモダン再帰性(構築)

民主制の不完全性を補完するものとしての民主制以前的な伝統、例えばアメリカには宗教的良心に対する信頼性があったり、自分の良心や趣味に基づいて結社(association)を作り、それが社会的な流動性に押し流されないベースになったり、あるいはヨーロッパには都市国家(中世の自治都市)の伝統があったり、ノーブル・オブリゲーションズがあったりする。しかし、こういった頼れるべきものが日本にはもともとない。日本では、ポストモダン再帰性(家族やコミュニティに機能的に等しいものを見つけ出し、開発していくこと)に過剰な負荷がかかる」
「人々は自分たちを支えているアーキテクチャ(構造)の真相を知りたいと思うのか?おそらく知りたくないだろう。そのアーキテクチャの中で安らぎたいのに、つまり『まったり』したいのに、虚像のシステムだとわかってしまったら『まったり』できない」

宮台氏が主張するように、コミュナル(共同社会的な)ものがいったん崩壊した日本では、家族やコミュニティに機能的に等しいものを探し、開発していくことが課題なんだと思われます。
しかし、それが難航していてうまくいってないからこそ、日本の多くの女性、特に厳しい社会環境の中でむき出し状態で晒されている女性(例えば、非正規で十分に賃金を稼げないシングル女性、男性からDVを受けている女性、家庭内に閉塞感を抱いている女性、男性中心社会で抑圧されながらも懸命に働いている女性、現実の男性に強い不信感を持ち幻滅している女性)ほど韓流アイドルや韓流タレントが提供する「家族ゲームやコミュニティゲーム」にのめり込んでいくのではないでしょうか?


[参考文献]
リニューアル・オープニング・シンポジウム「ネットワーク社会の文化と創造」
第一回「ネットワーク社会の文化と創造—開かれたコミュニケーションのために」【前半】
Renewal Opening Symposium: Culture and Creation in a Networked Society
Session 1: Culture and Creation in a Networked Society - Towards Open Creation [First Half]


韓流アイドルは「感動ビジネス」か?

世間では 「感動ビジネス」が真っ盛りです。
「感動ビジネス」というのは、人を感動させる商品やサービスを提供する商売のことです。

「感動できる映画」やら「泣ける小説」やらが巷に溢れ、スポーツを中継するアナウンサーが「感動をありがとう!」と繰り返し絶叫する光景がよく見られます。

人は自分を感動させてくれるものを求めて、積極的にお金を払います。
私が韓流アイドル(超新星東方神起、JYJ)のライブに行くのは、たぶん「感動したい」からなんでしょう。

私は、彼らの歌やダンスなどのパフォーマンスや端正なルックスに対して拍手を送っているのでしょうか?
確かにそうなんですが、それだけはないはず。
メンバー間の厚い友情や信頼関係に感動したり、デビューするまでの苦労やこれまでの困難に思いを馳せつつ現在の彼らの成功に拍手したり、ファンに語りかけられる誠実な言葉に涙ぐんだりしています。
つまり、私は韓流アイドルのパフォーマンスだけでなく、その波乱万丈なライフヒストリーにも感動しているのだと思われます。

皆さんはどうでしょうか?
韓流アイドルのライブイベントや商品を購入するとき、そこにはアイドルの人生への共感も含まれてませんか?
数々の苦労や逆境を乗り越えて、また言語や文化の違いを克服して成功をつかもうとしている韓流アイドルの真摯な姿に感動し、熱狂的な支持をしているのではありませんか?
そう、韓流アイドルには「感動できる要素」がたくさん詰め込まれているから、私たちファンは彼らを購入するのだと思われます。
(なぜ日本人アイドルではなく韓流アイドルに熱狂するのかの答えが、ここにあるような気がします)

そして、韓流アイドルに感動できなくなったとき、ファンの購入意欲は衰えるでしょう。
ファンが感動できなくなるキッカケは様々だと思います。
例えば、韓流アイドルの背景にあるストーリーに疑念を抱き、その物語性に薄っぺらさや胡散臭さを感じて共感できなくなったとき、ファンはファンであることを辞めるのかもしれません。

ところで、人はどうしてこうも「感動したがる」のでしょうか?

脳科学者のアントニオ・R・ダマシオの言葉を引用させてもらいます。

感動とは「脳が記憶や感情のシステムを活性化させて、今まさに経験していることの意味を逃さずにつかんでおく働きである」
「脳が全力を尽くして、今経験していることを記録しておこうとしている。生きる痕跡を指針として残そうとしている。そのプロセスに感動がある」

人はよくつぶやきます。
「私の生きる意味は何?」と。

生きている時間をだらだらと慢性的に過ごしていることは耐え難く、「私の人生は意味あるものだ」と感じたい心情が、感動を求めることにつながっているのかもしれません。

感動ビジネスが繁盛している現代社会は、「人生の空虚感」を穴埋めしたい人が多いということなんでしょうか(^_^;)


[参考文献]
香山リカ 『劣化する日本人』 ベスト新書、2014年

*感動創造研究所
http://www.kandosoken.com/report/

韓流アイドルへの自己愛憤怒と癒し

ファンは好きな韓流アイドルのことを、まるで自分の延長線上にあり、一部分であるかのように感じるときがあります。

例えば、コンサート中にアイドルに向かって手を振ったとき、アイドルがこちらを見てくれたとしましょう。
「あっ、目があった!」とあなたは思うかもしれません。
しかし、アイドルがあなたのことを本当に見つめていて認識しているかどうかは定かではありませんよね(^_^;)
また、コンサートの最後にアイドルが涙を流したとします。
それを見たファンは、アイドルがファンの情熱的で献身的な応援に感動してくれて泣いていると思うかもしれません。
確かにファンからの深い愛情に感動している部分もあるかもしれませんが、アイドルは自己の達成感や充実感に突き上げられて泣いているのかもしれません。
実際、アイドルの涙には、ファンからは想像できないほど多くの複雑な理由が絡んでいるものと思われます。

このようにファンは「自分の心とアイドルの心の区別があいまい」になっていて、アイドルの行動や感情を一方的に解釈することがあります。
その解釈によって自分の心が元気づけられたり、自分が肯定された(承認された)と感じたり、アイドルと同じ気持ちを分かち合えたと思ったりしたとき、アイドルはファンにとって「自己対象」になっています。

「自己対象」とは、他者を自分の一部分であるかのように感じ、自分を肯定してくれたり、共感してくれたり、大切にしてくれる相手のことです。
(「自己対象」の具体例として、親や親友、恋人や伴侶、子供、アイドル、ペットなどがあげられます)
この「自己対象」から思いもかけず批判されたり忠告されると、人間は傷つく場合があります。
もちろん傷つかない人もいれば、傷つきが大きい人もいます。
この違いは何でしょう?

実は心理学や精神分析では、自己愛が強い人ほど傷つきやすいと言われています。

自己愛というのは、「大切に扱われたい」とか「自分だけは特別」とか「自分が中心でありたい」とかいう気持ちです。
誰もがこの自己愛を大なり小なり持ってますよね。

では、自己愛の傷つきから生じる反応について書いていきたいと思います。

韓流アイドルの振る舞いが自分の期待に沿わなかったり、自分の気持ちを満足させてくれないと感じたとき、激しく怒り出して、SNS上で韓流アイドルに向かって辛辣で侮蔑的な言葉を吐くファンが一部にいますよね(^_^;)
これは、「自己対象」になっていたアイドルが自分の期待するような言動を見せてくれないことで、自分が大切にされていないと感じたり、自分が否定されたと感じてしまい、「恥をかかされた」とか「バカにされた」とか「見下された」とかいう屈辱感のあらわれだと思います。
つまり、強い自己愛(「自分だけは特別」「大切に扱われたい」といった気持ち)を持っているファンほど、自分の自己愛が傷ついたとき、屈辱感や怒りの感情でいっぱいになるのです。

屈辱感は激しい怒りを呼び起こします。
その怒りを抑制できないままSNS上で爆発させているのがアンチファンではないでしょうか?
(アンチファンの自己愛は肥大化しているのかもしれません^_^;)


自己対象、つまり自分を肯定してくれたり大切にしてくれる相手が原因となって作り出される激しい怒りのことを「自己愛憤怒(Narcissistic rage)」と呼びます。

韓流アイドルによって自己愛を傷つけられたと感じたファンは激しく怒り(自己愛憤怒)、辛辣な言葉で韓流アイドルのことを語り、非難し、罵倒するのは自我を守るためのメカニズムだと思われます。
(アイドルにはそのような意図がなくても)ファンは「自分が見下された/バカにされた」と感じて、「自分は何ら特別な存在ではない」という現実を突きつけられたとき、アイドルを見下すことで「見下された自分」を打ち消そうと必死なのかもしれません。
「自分は特別な存在」であるというイメージ(誇大化した自己愛)を守り抜くために、アイドルにありとあらゆる理由をつけて見下しているように思われます。

ファンは思い通りになるはずの韓流アイドルが自分の思い通りにならなかったことで、自分はたいして特別でもなく魅力的でもなく力を持たない存在であることを思い知り、「こんなに耐え難いのは韓流アイドルのせいだ」として、自分の誇大化した 感覚(全能感)を取り戻そうと韓流アイドルを罵倒しているように見えます。
韓流アイドルを痛めつけて、彼らを身動きできない状態にし、思い通りにできる道具にして、自分の心を癒しているのでしょうか?

そもそも日本の女性ファンの中に、韓流アイドルを「思い通りになるはず/思い通りになって当然」と意識している人が幾ばくかいて、そういった現実にかつてのコロニアリズム(植民地主義)を重ねてしまうのは私だけかしら?


[参考文献]
*ラリー・D・ローゼン、ナンシー・A・チーバー、L・マーク・キャリアー 『毒になるテクノロジー』 児島 修 訳、東洋経済新報社、2012年

香山リカ 『劣化する日本人』 ベスト新書、2014年

岡田尊司 『パーソナリティ障害』 PHP新書、2004年

和田秀樹 『<自己愛>と<依存>の精神分析PHP新書、2002年


「私は正しい」と主張することの危うさ

韓流アイドル(東方神起超新星など)のファンを辞めた女性たちのブログを読んでいると、ある共通言語が見えてきます。

「私は目が覚めた」
「ファンを辞めた私だからこそ、かつて好きだった韓流アイドルのことを冷静に語れる」
「正当な評価をしている。事実を言っているだけ」
「自分の気持ちを正直に書いていて、何が悪いの?」

上の表現からは、「私は正しい」といった態度を読み解くことができると思います。

東方神起が人気絶頂のさなかに分裂騒動を引き起こしたとき、ファンもそれぞれの形に分裂していきました。
東方神起(2人)のファンか、JYJ(3人)のファンか、あるいは両グループを同時並行して応援するファン(通称オルペン)か、そもそもファンコミュニティから離脱してしまったか。

ネット上では、それぞれの形に分裂したファンがお互いの意見を激しくぶつけ合い、東方神起の代理戦争を繰り広げていきました。

ファンによる東方神起の代理戦争とは、彼ら5人の行為の「正しさ」をファンが代弁するというものでした。
ファンはブログ等で「2人あるいは3人の行為がいかに『正しい』か。そして相手方の行為がいかに『間違っている』か」を熱心に書き込み、自分の意見とは相容れないものを排斥することに固執しているようでした。

超新星のファンを辞めた人、あるいは辞めようかどうか躊躇している人の一部にも、「盲目的に彼らを応援しているファンとは違っていて、自分は冷静に『正しく』状況が捉えられるし、的を得たことが言える」とブログ等で主張する記述が見られます。
そこには、アイドルやアイドルを溺愛するファンを自分より劣ったものとして認識していて、不遜な態度が見え隠れしているように感じられました。

このように韓流アイドルのファンを辞めた女性たちは、「自分の意見は正しい」「自分は正当な評価をしている」とためらうことなく口にします。

しかし、「正しい」「間違っている」に絶対的な基準はありません。
その時代、その文化、その社会状況の中で設定されたルールにどれほど馴染んでいるか、そのルールをどれほど受け入れているかによって、「正しさ」は左右されると思います。
例えば、殺人は民主主義の現代社会においては法律で認められていなく、「殺人は間違っている」という共通認識を人々は持っていますが、戦争下にあっては殺人は認められています。
そう、戦争している状態では国家や国民の命を守るという大義名分があって、そのためにあらゆることが正当化されていき、「敵やテロリストを殺すことは正しい」と認識されます。

このように「正しい」「間違っている」はその都度、変化します。
もっと詳しく言うならば、「正しい」というのは「それが自分にとって心地よい」かどうかということなのす。
脳研究者の池谷裕二氏(東京大学大学院准教授)は、「『正しい』は『好き』の言い換えにすぎない」と説明しています。
以下、池谷氏の著書『単純な脳、複雑な「私」』より抜粋。

「正しい」というのは、「それが自分にとって心地いい」かどうかなんだよね。その方が精神的には安定するから、それを無意識に求めちゃう。つまり、「好き」か「嫌い」かだ。自分が心地よく感じて好感を覚えるものに対して、僕らは「正しい」と判断しやすい。

実際、普段の生活の中で、だれかに対して「それは間違ってるよ」と偉そうに注意するとき、その「間違ってる」を「おれはその態度が嫌いだ」と言い換えても意味は同じだよね。「正しい」「間違い」の差は、脳にとっては、個人的な、あるいは社会的な意味での「好悪」のバランスになってくるんじゃないかな。


アイドルのファンを辞めた女性たちが、ファンを辞めた後も執拗にアイドルの態度や作品、パフォーマンスに対して言及するとき、「私の意見は正しい」「私は正当な評価をしている」と頻繁に主張しますが、池谷氏を参考にすると次のように言い換えられますよね。
「私はあのアイドルの○○な態度が嫌い。こうした私の意見は、自分にとって心地よく感じられる」
「私は自分にとって心地よく感じられるように、ときには褒めちぎり、ときにはこき下ろしながら、アイドルを都合よく評価している」

すなわち、アイドルに対して不快感を持つようになり嫌悪感情を抱くと、そのアイドルは「正しくない」ものとして判断されます。
逆に、アイドルに好感を覚えると、アイドルは「正しい」ものとして判断されます。

結局、アイドルについて何かを語るとき、誰も公明正大に語ることなどできないと思われます。
アイドルに夢中になっているファンは、どんなふうにもアイドルを褒めそやし、肯定し、理想化し、それが自分にとって心地よいからそうするのでしょう。
アイドルに魅力を感じなくなったファンは、どんなふうにもアイドルを見下し、その価値を貶め、それが自分にとって心地よいからそうするのでしょう。

アイドルの理想化から脱価値化までバランスよく織り交ぜて書いてあったブログだとしても、そのブロガーさんが「私の意見は正しい」と感じているとき、それは「私は今、自分にとって心地よいことを言っている」にすぎないと思ったほうがよいのでは?
「私の意見や判断は絶対に正しい」などとはゆめゆめ思わないように。

賞賛ブログも批判ブログも「アイドルに対する好悪」があらわれているだけだと思います。
そこに「正しい意見や正しい感想」はありません。
どんな人間も好悪の感情(「好き」か「嫌い」か)に引っ張られて、物事の見え方にはバイアスがかかるものです。


[参考文献]
池谷裕二 『単純な脳、複雑な「私」』 講談社ブルーバックス、2013年

「享楽的なはけぐち」としての韓流アイドル⁈

日本市場に投下された韓流アイドルは、いわば「移民アイドル」であり、私たちファン・コミュニティは「ホスト社会」に当たると思います。
「ホスト社会」というのは、エスニックマイノリティ(少数民族)を受け入れる多数派社会のことです。

韓流アイドルは日本とは異なる文化の中で育ち、彼らなりの考え方や習慣を持ってますよね。
しかし日本で活動するにあたり、日本の文化的価値観や習慣、芸能界での習わしなどにすり合わせて、私たちファン・コミュニティ(ホスト社会)に受け入れやすくされるための戦略をとっています。
それを「現地化」と表現したのは、韓国の芸能事務所です。

「現地化」された韓流アイドルは、日本語を話し(習熟度はアイドルによってそれぞれ異なりますが^_^;)、好きな日本食に言及したり、日本人女性の良いところ(控えめで優しいとか、声や話し振りが可愛らしいとか)を褒めあげたり、日本の文化や土地柄に触れたりして、ファンの気持ちに訴えかけ共感性を呼び起こします。

日本人ファンはたいてい彼らの言動に好意を抱きますが、ふとした瞬間に違和感を覚えることもあります。
この違和感の正体こそ、私は文化の違いだと思ってます。
たとえどんなに徹底して「現地化」された韓流アイドルだとしても、彼らの韓国人としてのアイデンティティは消えることはないでしょうし、100%抑圧することは不可能だと思われます。

韓流アイドル・超新星を例にしますと、メンバーが各地のライブ会場でのファンの声援の大きさやノリの良さを比較することがよくあります。
メンバーが「今回の会場が1番盛り上がっていて楽しかった。ありがとう」と言うことに対して、日本のファンの中には良い印象を持たない人が一定数いるようです。

一定数のファンは比較されることを嫌がってます。
超新星メンバーのそのような発言をライブ会場で直接聞いたり、SNS上で知ったりして、「別のライブ会場で楽しいひと時を過ごしたのに、まるで自分の参加したライブが否定されたみたいで、気持ちが萎えるし、傷つく」と。
(私自身はそのようには感じません。彼らが言った「1番盛り上がったライブ」に参加できなかったことはもちろん残念に思いますし、参加できたファンに羨ましさや若干の嫉妬を感じますが、私が過去に参加したライブの価値はそのままです。楽しかったひと時は楽しかったひと時のまま、大切な記憶として保存されます^ ^)

一体、「ファンの傷つき」はどこから来るのでしょうか?
それは日本人の文化的心理的特性として、「基本的には横並びで、他人と同じことで落ち着く日本人は、誰かが豪華になったり貧相になったりすることを嫌がる」傾向があるからではありませんか?
同質性・同化性に心理的安心感を持ち、平等意識を重んじている人ほど、「他者から比較されること」に敏感になり、「自分が否定された」あるいは「自分は見下された」「優劣がつけられた」と思い込んで、つまり「自分は他者から大事に扱われてない/愛されいない」と感じてしまい、「傷つく」のかもしれません。
(韓国には「好きなものは好き、嫌なものは嫌」などと何でもはっきり言う文化があるそうでして、曖昧な言葉を使い、ホンネとタテマエを使い分ける日本人とは対照的だと思います)

さて、これはファンの「自己愛の傷つきやすさ」を意味してるのではありませんか?
(自己愛とは、他者から大事にされたい/愛されたいという気持ちです)
自己愛を傷つけられたファンは韓流アイドルに不満や怒りをあらわにし、「ライブ会場ごとにファンの態度を比較して、評価を与えるべきではない」と主張します。
確かに消費者である私たちファンは、どんなライブに参加しても、一定レベルの保証された価値あるエンターテイメントを享受する権利を有していると思います。
しかし、ライブとは文字通りナマモノであり、会場の広さや観客の反応、韓流アイドルの体調、音響の具合などによって左右され、毎回、判で押したようなライブが行われることはありませんよね?
ライブの醍醐味は、この偶然性による相互作用で生み出されるものと思ってます。
また、超新星メンバーによる比較発言は、過去のライブの価値を下げたり否定するものではないと私個人は感じています。
(「今、この瞬間、すごく充実している」という気持ちを彼らは率直に表現しているだけであって、過去のライブを「つまらないもの」とか「ダメなもの」とか断言しているようには思えません…)

「韓流アイドル・超新星に大事に扱われていない」と感じたファンは、「これは平等意識に基づく正当な怒りだ」として、彼らに説教します。
いえ、説教というよりは、『「お客様は神様です」なる価値観を逆手に取り、彼らを「享楽的なはけぐち」にして、過剰クレーマーになっている』感じがします。
アイドルに夢を見れなくなり、かといって他に夢中になれるものを見つけられず、好きだったアイドルにアンチコメントすることが一種の暇つぶしや娯楽となり、イジメのような「享楽的なはけぐち」として彼らを利用しているのかもしれません(^_^;)

自己愛(愛されたい気持ち)が肥大化している人間は、本来、傷つく原因にならないようなことで傷つき、その傷ついた気持ちを屈辱感や怒りに変換して他者にぶつけ、他者と信頼関係が結ぶことが難しいものです(^_^;)
私はこの肥大化した自己愛をアンチファンの中にときどき見出してしまうのです。

「自分が大切に扱われていない/自分は見下されている」といった感情は、恥をかかされたという屈辱感や欲求不満、怒りに転化します。
そして、その怒りや批判をより弱いもの=日本ではエスニックマイノリティである韓流アイドルに向けていき、自分の平等主義やプチ正義感を満たしているのが、アンチファンの本質なのでしょうか?

他者の期待はずれの言動に対して、屈辱感を抱いたり、激しく怒ったり、強い不満を持つのは、自己愛(愛されたい気持ち)が傷ついたのであり、弱い自分を防衛しているのです。
弱い自分を守るために、より弱い相手(韓流アイドル)を感情のはけぐちにしていて、これではまるで韓流アイドルをイジメているようです。


[参考文献]
香山リカソーシャルメディアの何が気持ち悪いのか』朝日新書、2014年

岡田尊司『パーソナリティ障害』PHP新書、2004年

*みんなが知りたい韓国文化
http://korean-culture.com/


韓流アイドルと「オバサン」

韓流アイドル「超新星」や「東方神起」「JYJ」のライブイベントに参加すると、多くの中高年女性の姿を見つけることができます。
はい、私もその中高年女性の範疇にもれなく該当します(笑)

さて、韓流アイドルのファンによるブログやツイ、掲示板などでは、よく「オバペン」「オバサン」「BBA(ババァ)」といった単語が使われています。
これらの単語は中高年女性を揶揄したり蔑視する呼称として使われていますけど、若年層が中高年女性に対して用いるだけでなく、当の中高年女性が自分たちのことを指して積極的に名乗っている場合もあります。
いえ、「積極的に」というよりは「自虐的に」名乗ると表現した方が正確でしょうか(^_^;)
(男性の場合、自分が若かろうが年を取っていようが、中高年女性を「オバサン」呼ばわりし揶揄する傾向が見られます。これこそ「ミソジニー(女性嫌悪・女性蔑視)」の象徴的態度なのかもしれません)

中高年女性は、世間が「年甲斐もなく若い男性アイドルに夢中になっている自分」をどのように扱うのか理解しているからこそ、防衛的になって自らに蔑視語を用いてるように感じられます。
世間一般には、中高年女性が年若い男性にはしゃぎ、貢ぐ状態を「みっともない」とか「はしたない」とか「色狂い」(笑)として受け止める傾向がありますよね?
若い女性が男性アイドルに夢中になっても、それは疑似恋愛として肯定的に受け止められますが、中高年女性のそれは「浅ましい」ものとして扱われがちです。
ここに「女性が若いか若くないか」によるダブルスタンダード(二重基準)がありますよね。
(中高年女性が若い男性アイドルを資金力にまかせて、いいようにしているという批判も含まれているとは思いますが、若い女性も同様にお金を使って男性アイドルを購入しています)

また中高年女性をターゲットにした女性雑誌では、「脱オバサン化」や「アンチエイジング」をテーマにした特集が頻繁に組まれます。
女性はいくつになっても「明るく、爽やかで清潔感があって、キレイで、鈍臭くない(機敏性がある)」ことが求められる風潮がありませんか?

そうです。
世間一般的には、ズバリ女の価値は「若さと容姿」ですよね(^_^;)

女の価値は若くて美しいことだと内面化している女性ほど、容姿や体型の維持に日々努力し、「オバサン」や「BBA」といった言葉に敏感になるかもしれませんし、そのような蔑視語が当てがわれたとき、自分が全否定されたような感覚に陥るかもしれません。

韓流アイドルの中高年女性ファンが自らを「オバペン」「オバサン」「BBA」と名乗るのは、他者から自分を全否定される前に、自分で自分のことを否定することでプライド(自尊心)を守っているのでしょうか?
誰に指摘されるでもなく、自らを「オバサン」「BBA」と宣言することで防波堤を築き、弱々しくおびえている自分をひた隠しながら、その防波堤の中で息巻いているだけなのかもしれません(^_^;)

果たして、女の価値は「若さと美しさ」にあるのでしょうか?

「オバサン」と呼ばれたときに不快感や違和感を覚えるのは、「オバサン」には「図々しい/垢抜けない/みっともない」などのマイナスイメージが付与されているからです。
自分が若い頃に「女の価値は若くて美しいことにある」と思い、それを強く内面化している場合、年を重ねるにつれて自分が付与したマイナスイメージの「オバサン」に移行していくことは非常に耐え難く、苦痛をもたらすことでしょう。
だから、必死で「オバサン」になることに抵抗するのです。
「オバペン」や「BBAペン」を自称して防波堤を築きながらも、心のうちでは「自分はそうではない」という確証を得たくて仕方がないのかもしれません。
韓流男性アイドルとの疑似恋愛を妄想し、ファンコミュニティの中で「彼と私」の物語を無邪気に語り合い、互いに「いいね!」を押し合う作業は、中高年女性の中にある「少女性/乙女性」へのこだわりと回帰願望のあらわれであり、成熟した女性に価値を見出さない社会一般を反映しているのかもしれません。

そう、日本社会は成熟した女に価値を見出しません。
社会で働く中高年女性は仕事の内容でスキルを高く評価されたとしても、見た目が野暮ったく「オバサン」的であるだけで、その人物の印象は半減しませんか?

また、ジェンダー平等が叫ばれている今日であっても、家庭を切り盛りし、家族のケアをする役割は女性により多く割り当てられてます。
家事や子育て、介護などのケアワークは人の生命を支える基本的な営みであり、安らぎとエネルギー再生産を担っているにもかかわらず、「女なら誰にでもできること」として社会的評価はさほどでもありません。
ときには髪を振り乱し、顔にシワを刻み、一心不乱に家族のケアをしている女性を気の毒に思い、同情の目で見ながらも、「ああはなりなくない」と忌避する心理がありませんか?
私には恥ずかしながらあります(^_^;)

なぜか女性は男性に比べて「若々しさと美しさ」を強く要求されますし、女性自身も「若々しさと美しさ」を維持することが他人から承認される術だと思いがちですよね。

誰が女の価値は「若さと美しさ」にあると決めたのでしょうか?
男?
男が決めたのかしらん?

そうそう、面白い現象があります。
韓流アイドルのファンコミュニティの中には、韓流アイドルの若さと容姿に過剰反応する傾向が見られます。
「歌やダンスの実力はあるけど、ルックスがあれじゃあ…」
「あの韓流アイドル、もういい年だよね。オワコンじゃないの?」
「若さとキレイさ/カッコよさが最大条件でしょ」
「あのアイドルは顔しか価値がないよね」

確かに、世界中どこのアイドルも、その商品価値は「若さと容姿」に重きが置かれているため、しごく当然の反応なんですが、近年のジャニーズタレントの中高年化とそれを受け入れるファンとの関係性を観察し比較してみると、やはり韓流アイドルのファン(とりわけ中高年女性)の方が「若さと容姿の衰え」に対してシビアに反応している感じがします。←私の思い込みかもしれませんが(^_^;)

「女の価値は若くて美しいことだ」というイデオロギー(笑)を強く吹き込まれてきた女性ほど、韓流男性アイドルに「若さと美しさ」を厳しく要求し、彼らの「若さと美しさ」に憧れ、同一化して自分の心を潤しているとも推測できます。

日本の女は、自分たちが男からされてきたことを韓流男性アイドルに対して繰り返している(やり返している)のでしょうか?
韓流アイドルのファンを観察していると、一部のファンの中には「韓流アイドルを侮蔑しながら愛している」といった状態を見て取れなくもありません(^_^;)


[参考文献]
田中ひかる『「オバサン」はなぜ嫌われるのか」集英社新書、2011年