「私は正しい」と主張することの危うさ

韓流アイドル(東方神起超新星など)のファンを辞めた女性たちのブログを読んでいると、ある共通言語が見えてきます。

「私は目が覚めた」
「ファンを辞めた私だからこそ、かつて好きだった韓流アイドルのことを冷静に語れる」
「正当な評価をしている。事実を言っているだけ」
「自分の気持ちを正直に書いていて、何が悪いの?」

上の表現からは、「私は正しい」といった態度を読み解くことができると思います。

東方神起が人気絶頂のさなかに分裂騒動を引き起こしたとき、ファンもそれぞれの形に分裂していきました。
東方神起(2人)のファンか、JYJ(3人)のファンか、あるいは両グループを同時並行して応援するファン(通称オルペン)か、そもそもファンコミュニティから離脱してしまったか。

ネット上では、それぞれの形に分裂したファンがお互いの意見を激しくぶつけ合い、東方神起の代理戦争を繰り広げていきました。

ファンによる東方神起の代理戦争とは、彼ら5人の行為の「正しさ」をファンが代弁するというものでした。
ファンはブログ等で「2人あるいは3人の行為がいかに『正しい』か。そして相手方の行為がいかに『間違っている』か」を熱心に書き込み、自分の意見とは相容れないものを排斥することに固執しているようでした。

超新星のファンを辞めた人、あるいは辞めようかどうか躊躇している人の一部にも、「盲目的に彼らを応援しているファンとは違っていて、自分は冷静に『正しく』状況が捉えられるし、的を得たことが言える」とブログ等で主張する記述が見られます。
そこには、アイドルやアイドルを溺愛するファンを自分より劣ったものとして認識していて、不遜な態度が見え隠れしているように感じられました。

このように韓流アイドルのファンを辞めた女性たちは、「自分の意見は正しい」「自分は正当な評価をしている」とためらうことなく口にします。

しかし、「正しい」「間違っている」に絶対的な基準はありません。
その時代、その文化、その社会状況の中で設定されたルールにどれほど馴染んでいるか、そのルールをどれほど受け入れているかによって、「正しさ」は左右されると思います。
例えば、殺人は民主主義の現代社会においては法律で認められていなく、「殺人は間違っている」という共通認識を人々は持っていますが、戦争下にあっては殺人は認められています。
そう、戦争している状態では国家や国民の命を守るという大義名分があって、そのためにあらゆることが正当化されていき、「敵やテロリストを殺すことは正しい」と認識されます。

このように「正しい」「間違っている」はその都度、変化します。
もっと詳しく言うならば、「正しい」というのは「それが自分にとって心地よい」かどうかということなのす。
脳研究者の池谷裕二氏(東京大学大学院准教授)は、「『正しい』は『好き』の言い換えにすぎない」と説明しています。
以下、池谷氏の著書『単純な脳、複雑な「私」』より抜粋。

「正しい」というのは、「それが自分にとって心地いい」かどうかなんだよね。その方が精神的には安定するから、それを無意識に求めちゃう。つまり、「好き」か「嫌い」かだ。自分が心地よく感じて好感を覚えるものに対して、僕らは「正しい」と判断しやすい。

実際、普段の生活の中で、だれかに対して「それは間違ってるよ」と偉そうに注意するとき、その「間違ってる」を「おれはその態度が嫌いだ」と言い換えても意味は同じだよね。「正しい」「間違い」の差は、脳にとっては、個人的な、あるいは社会的な意味での「好悪」のバランスになってくるんじゃないかな。


アイドルのファンを辞めた女性たちが、ファンを辞めた後も執拗にアイドルの態度や作品、パフォーマンスに対して言及するとき、「私の意見は正しい」「私は正当な評価をしている」と頻繁に主張しますが、池谷氏を参考にすると次のように言い換えられますよね。
「私はあのアイドルの○○な態度が嫌い。こうした私の意見は、自分にとって心地よく感じられる」
「私は自分にとって心地よく感じられるように、ときには褒めちぎり、ときにはこき下ろしながら、アイドルを都合よく評価している」

すなわち、アイドルに対して不快感を持つようになり嫌悪感情を抱くと、そのアイドルは「正しくない」ものとして判断されます。
逆に、アイドルに好感を覚えると、アイドルは「正しい」ものとして判断されます。

結局、アイドルについて何かを語るとき、誰も公明正大に語ることなどできないと思われます。
アイドルに夢中になっているファンは、どんなふうにもアイドルを褒めそやし、肯定し、理想化し、それが自分にとって心地よいからそうするのでしょう。
アイドルに魅力を感じなくなったファンは、どんなふうにもアイドルを見下し、その価値を貶め、それが自分にとって心地よいからそうするのでしょう。

アイドルの理想化から脱価値化までバランスよく織り交ぜて書いてあったブログだとしても、そのブロガーさんが「私の意見は正しい」と感じているとき、それは「私は今、自分にとって心地よいことを言っている」にすぎないと思ったほうがよいのでは?
「私の意見や判断は絶対に正しい」などとはゆめゆめ思わないように。

賞賛ブログも批判ブログも「アイドルに対する好悪」があらわれているだけだと思います。
そこに「正しい意見や正しい感想」はありません。
どんな人間も好悪の感情(「好き」か「嫌い」か)に引っ張られて、物事の見え方にはバイアスがかかるものです。


[参考文献]
池谷裕二 『単純な脳、複雑な「私」』 講談社ブルーバックス、2013年