韓流アイドルのファンは「厳しい母性」を発揮する

ファンが韓流アイドルの行く末を心配して、「頑張ってほしい。努力してほしい。成長してほしい」と執拗に繰り返す現象が見られます。
これは、アイドルグループ「超新星」とそのファン「ミルキーウェイ」との間で非常によく観察される現象です。
ミルキーウェイ」とは超新星のファンクラブ名であり、彼女たちはミルキーウェイという単語の中に「超新星との絆」や「ファン同士の連帯感」を読み込んでいます。
中には、ある種の自負心(「私たちこそが超新星を支え、守っているのだ」といったプライドや気負い)すら感じられるファンもいます。
要するに、「ミルキーウェイ」という言語は超新星とファンとの、またはファン同士の「連続性/絆」の表象なのだと思われます。

前置きはここまでにして、そろそろ本題に入りますね。
私たちが誰かに対して「頑張れ!」と言うとき、「相手は持っている力を出し尽くしていない」とか「まだまだ努力や気合いが足りない」ことを前提にしていませんか。
あるいは、「持っている以上の力を出してくれ」と要求していることになりませんか。

他人に対して「頑張りや気合いを要求する」のは、なぜなんでしょう?
頑張っている人を見ると、自分も頑張れるから?
相手の成功や勝利を願っているから?
いずれにせよ、他人に対して「頑張って!」と言うとき、私たちは「自分のため」に頑張ってほしくて、相手にその言葉をぶつけているような気がします。

例えば、親しい友人や家族が病気になったとき、「頑張ってね」とよく言いますよね。
親しい人間が元気になってくれれば、私たちは普通に嬉しいものです。
もし相手の病気が深刻であれば、病気からの回復は相手の喪失を回避したことになり、来たるべき絶望感や悲しみの感情を味わわないですむでしょう。
つまり、私たちは自分にとって好ましい結果を相手が運んできてくれることを望んでいて、そこで「頑張って!」と言っているのです。
また、応援しているスポーツ選手やアイドル、アーティストなどに「頑張って!」と言うとき、彼らが仕事や試合で勝利・成功を収めて喜ぶ姿を目にすることで私たちは同調・共感し、自分も興奮したり感動したい欲望があるから、「頑張れ」という言葉を口にしているような気がします。

結局、私たちは相手に対して「頑張って!」と言うとき、単に相手を激励しているのではなく、自分のために好ましい状況を作ってほしくて「頑張って!」と言っているのではないでしょうか。
そう、「自分のため」です。

ここで、アイドルグループ超新星に対し、一部のファンが執拗に頑張りや努力、気合いを要求する現象に関してもう少し突っ込んで書いてみようと思います。

超新星に対して「頑張って!」という言葉を使うとき、彼女たちは自分のために頑張ってほしくて、その言葉を口にしていることに気づいているのでしょうか?
超新星のことを心から愛しているから頑張ってほしい」という意見をよく見かけますが、それは寵愛的・保護的でありながらスパルタ的であるということです。
自分のために頑張ってほしい欲望を押し隠しながら、あるいは気づかないまま、「あなたのためよ」と叱咤激励する態度は「厳しい母性」そのものです。

口うるさく「あなたのためよ。頑張って!」と言われ続けたとき、あなたならどう感じますか?
結果にあらわれなくても、自分ではそれなりに努力しているつもりなのに、他人からひたすら努力や頑張りを要求されたとき、「もうほっといてくれ」と思いませんか?
ほっといてほしいのに、相手は追いかけてきます。
「あなたのためよ。私に合わせてくれるなら、いくらでもあなたを受け入れて愛してあげる」と。

この態度こそ受容的・包摂的・保護的でありながらスパルタ的であり、「厳しい母性」の象徴に思われます。
このように超新星のファンコミュニティには「厳しい母性」ともいうべき性質がはっきりと観察されるのです。

「厳しい母性」は、相手が自分の思い通りの姿であるときは過剰に愛情を供給しますが、相手が自分の理想から外れた姿や予期せぬ姿を見せたときには、素早く愛情を撤去します。
しかし愛情を撤去しながらも、相手を追いかけ回すことは止めません。
「あなたのためよ。私に合わせてくれるなら、いくらでもあなたを受け入れてあげる」と。
このように「厳しい母性」とはルールを欠いていて、恣意的な暴力になり得るのです。

そもそも母性とは心理学では、「相手を受容する」ものであると同時に「相手を食らい尽くす/飲み込む」ものだと解釈されています。
母性には二面性があるのです。
この「相手を食らい尽くす/飲み込む」部分が肥大化すると、「厳しい母性」(保護的・包摂的でありながらスパルタ)になるのかもしれません。

母性は性別に関係なくあらわれる性質です。
私たち人間は母性も父性も両方とも持っています。
父性が「相手との関係を切断する」機能を持っているのに対し、母性は「相手を受け入れる/飲み込む」機能を持っています。
父性=切断・分離・独立、母性=連続性・絆・受容なのです。
相手との境界を明確に意識しながら(人の心は個々に独立したものであり、相手の自我と自分の自我は決して交わることはないと意識しながら)、相手を受け入れるとき、切断と受容のバランスが取れているのかもしれませんね。
そうそう、このブログ・エントリーの前置きで、「ミルキーウェイ」という言語はファンにとって超新星とファンとの、またはファン同士の「連続性/絆」の表象であると書きましたが、連続性/絆=母性であり、「ミルキーウェイ」という集団が母性的志向を強く持っていることに他なりません。
ただし、最近の「ミルキーウェイ」は「厳しい母性」への傾きが顕著であるように思われます。


[参考文献]
*斎藤 環 『ヤンキー化する日本』 角川書店、2014年